教育思想における構造主義の問題圏--抵抗から行為の組織化へ

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1、大阪大学教育学年報 第15号AnnalsofEducationalStudiesVol.15教育思想における構造主義の問題圏抵抗から行為の組織化へ國 崎 大 恩【要旨】 本稿の目的は、クロード・レヴィ=ストロースの思想を通して、教育思想における構造主義の新たな射程を明らかにすることにある。 日本の教育思想において、構造主義の思想は主に他者論と結びつく形で受容されてきた。その結果、構造主義の思想は近代教育学批判のための地平を開き、「主体化/従属化」に対していかに抵抗するのかという問題を考察すべきテーマとして設定してき

2、た。本稿はそうした従来の構造主義の問題圏とは異なる形で構造主義の問題圏を示し、新たな教育に関する議論の方向性を提示している。 本稿で示された教育思想における構造主義の問題圏とは、教育と呼ばれうる現象を組織化する行動をみなければならないというものである。そして新たな教育に関する議論において核となりうる概念を「行為(pratique)」と対置される「実践(praxis)」というものに見いだし、教育という行為がどういった実践によって組織化されているのか、そしてそこでは何が可能なものとされ何が不可能なものとされるのかを問うと

3、いう新たな教育に関する議論の方向性を提示している。1 教育思想における構造主義の受容とその課題 構造主義といえば、アルチュセールやフーコーといった思想家、レヴィ=ストロースといった人類学者、(1)ラカンといった精神分析学者らの名前があげられることが多い。このように構造主義は様々な領域にみら(2)れるが、それらはすべて主体を否定する思想であると言われることがある。確かに彼らは自律的な存在者を前提とする主体観は放棄するのだが、だからといって主体を論じることそれ自体を否定するわけではない(3)。たとえば、フーコーは「ある個

4、人が主体としての機能を果たすようになるかもしれない条件の分析」(フーコー2006、424-425頁)を行ってきたと述べ、ラカンは「真の意味で基本的な何ものか」に対する主体の依存を問題にしていると述べている(フーコー2006、428頁)。つまり構造主義とは、バディウの言葉を借りるならば、「主体の範疇を変容させ、…新しい主体の理論を作る」(バディウ2004、165-166頁)ものなのである。そこでとりあえず、「主体化/従属化」という観点から新しく主体を捉え直そうとする立場として構造主義を緩やかに規定しておきたい。 日本の

5、教育思想において構造主義の思想は、主にフーコーやアルチュセールに言及されながら、近代教育学批判の文脈で受容されてきた。つまり、自律的な主体を前提とする近代教育学に疑いの眼差しを向ける上で、「規律・訓練」や「国家のイデオロギー装置」という分析枠組みが使われてきたのである。しかし視点を変えてみるならば、次のような疑問が生じてくる。それは、教育思想においてなぜ構造主義の思想の中でもフーコーやアルチュセールばかりが言及されるのかということである。なるほど彼らへの言及が構造主義を受容するためではなく、近代教育学批判のためであっ

6、たことは確かだ。しかしそうであるならば、近代教再校4國 崎 大 恩育学がしばしば利用してきた子どもと未開人をパラレルに語る枠組みを再考する上でレヴィ=ストロースによる人類学的取り組みは手がかりとなりそうであるし、自律的な主体を再考する上でラカンの主体に関する詳細すぎるほどの分析は手がかりとなりそうである。にもかかわらず、なぜレヴィ=ストロースやラカンへの言及は少なく、フーコーやアルチュセールが多く言及されてきたのだろうか。 私たちはここで、教育思想において構造主義の受容がポストモダンの名の下で行われたことに着目する必

7、要があるように思われる。日本の教育思想において、近代教育学の再考は様々な視点が混在するポストモダ(4)ン論という形で展開された。その中でも、構造主義の受容という点に限っていえば、他者論との関係について言及すべきであろう。教育学における他者論は、主にリオタールやウィトゲンシュタインに言及しながら、近代教育学が子どもの他者性を抑圧/忘却してきたと告発する(丸山2000、森田2001)。つまり、理解と説明が可能な存在へと還元されることで、子どもは教育可能な存在=教育対象になったというのである(森田1996)。 教育の他者論

8、で示された図式、つまり教育対象として措定される「子ども」とそこで抑圧/忘却される子どもの他者性という図式は、フーコーの「規律・訓練」やアルチュセールの「国家のイデオロギー装置」という考え方と教育学的に相性が良い。というのも、「子ども」には回収できない子どもの他者性が近代教育学では抑圧/忘却されてきたとする他者論の問題枠組みを、それがたとえ彼らの

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