湯崎夫沙子の粘土アニメーションについての臨床心理学的考察

湯崎夫沙子の粘土アニメーションについての臨床心理学的考察

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时间:2019-05-26

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1、47湯崎夫沙子の粘土アニメーションについての臨床心理学的考察横田正夫1.はじめに湯崎夫沙子はイタリアのミラノに住んで,粘土アニメーションを作り,ヨーロッパに広く受け入れられている作家である。ストーリー性よりは変化の面白さを重視する。粘土によって形と色が変化し,とどまるときがなく動き続け,瞬間瞬間に現れる事物によって,現代の有様を象徴的に表現する。子ども向けの作品であっても,詩情は豊かである。1937年生まれの湯崎は,1960年(23歳)に女子美術大学芸術学部図案科を卒業した後,1964年(27歳)にイタリア政府給費を得て留学し,ミラノ・ブレラアカデミィのルチアノ・ミング

2、ッチィ教授のもとで立体造形の研究をおこなう。もともと抽象彫刻をおこなってきた(図1~図5参照)こともあって,だれに師事するかを悩んだ末の選択であった。ミングッチィについては日本で彼についての大きな展覧会があってそれを見ており,当時にあって数少ない抽象彫刻家であったので,自分の作品を理解してくれると考えた。しかし,湯崎の作る広場に置くような彫刻は,イタリアでは都市計画が厳しく設置する広い空間の確保が難しい(Russo,2005)。2年間の留学が終わるころ,湯崎は日本に戻るべきか,イタリアに留まるべきかについて悩む。イタリア語を教えてくれていた,その後仕事の右腕となるマリア

3、・アニエーゼとともに,日本とイタリアでより魅力と感じるところを比較したところ,湯崎はそれがイタリアに多いことに気づき,そのまま留まることを決意する(湯崎,2002b)。その頃,湯崎はイタリアにおけるテレビ・広告を担当していたロー・マルチェナーロに会い,日本の二科展出品で特選(図4),銀賞(図5)を得た彫刻の写真を見せ,その本随は生命ある彫刻であることを語る。すると彼は湯崎にアニメーションを作ることを勧める(Russo,2005)。そして彼女のアニメーション制作がはじまる。2.粘土アニメーションの意味粘土アニメーションは湯崎が最初というわけではないが,彼女が粘土を変形させ

4、ることで独自のアニメーション世界を創造したことは疑いない(Russo,2005)。湯崎の粘土を使ったアニメーションにはヨーロッパの影響があるのかもしれない。街中に48湯崎夫沙子の粘土アニメーションについての臨床心理学的考察ある舗石にヨーロッパの長い歴史を感じることもできるであろう。作家の須賀敦子(2007a)は,その舗石について興味深い文章を書いている。引用してみよう。「ローマでも,ナポリでも,舗石を敷いた道があるのは旧都心で,それもほんの一部にしか残っていない。なつかしい,と書きはしても,じっさいは,とくに女の靴にとっては,かなり歩きにくいものである。私のイタリア暮ら

5、しの発端となった50年代の終わりごろいっせいに流行った,細く尖ったヒールでそのうえを歩いて,先端が石と石の隙間に刺さったりして,あぶない思いをしたことだってあるし,いまでも,日本から行ってどういうものか3日ほど経つと,足の裏になにか傷でも隠れているみたいに,一歩あるくごとに,刺すような痛みが靴底に走る。にもかかわらずやはり舗石の道が恋しいのは,ああいった道が伝えてくれる,しっかりした抵抗感のせいではなかろうか。その証拠,というのもすこし変だけれど,路面に足が慣れて痛さを忘れるのとほぼ同じ時期に,私という人間ぜんたい,からだぜんたいが,ヨーロッパの国でいきるときの感覚をと

6、りもどしている。」(p.271)長い引用になったが,須賀にとっては石の硬さと不動性のもつ抵抗感が,ヨーロッパで暮らす個としてのありかたを感じさせるというのである。それはヨーロッパにおいて「生きる力のようなものを教えてくれる」(p.277)のであり,さらには「いま考えると,あのころすでに私は,舗石を敷いた道に,そして,石を粘土細工のように使って遊んでしまうあの国の人たちの思想に,とりかえしがつかないほど,深く侵食されていたにちがいない」(p.280)と結論付ける。こうした須賀の文章の示す方向性は,ヨーロッパ文化が石の硬さと不動性によって象徴されるもので,たやすく変化しない

7、,ということである。こうした経緯を持つ須賀を,ちょうど日本に帰国していたとき,ミラノへ留学が決っていた湯崎が訪問した。1964年10月6日のことである。以後二人は親しい友人となる(松山,2007)。さて,須賀は,年譜によれば,最初にヨーロッパに出かけたのが,1953年(24歳)であった。湯崎がイタリアに留学したのが,1965年(28歳)のときであった。須賀とはほぼ10年の開きがある。このほぼ10年の開きのなかで,須賀はヨーロッパの不動性を受け入れ,それに対し湯崎は粘土を使って,石は変化するという作品を提供し続けることになる。須賀は日本に戻

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