日本战国——平家物语(卷一日文)

日本战国——平家物语(卷一日文)

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时间:2019-06-10

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1、平家物语卷第一平家物語巻  第  一祇園精舎(ぎおんしょうじゃ) 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理 をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂 にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。 秦の趙高(ちょうこう)、漢の王莽(おうもう)、梁の周伊(しゅい)、唐 の禄山(ろくさん-安禄山)らも旧主先皇の请不要涉及这个方面,是违法的に 従わず、楽しみをきわめ諫言も聞かず、天下の乱れも知らず、民衆の憂いも顧 みないので亡びてしまった。 我が国でも、承平の平将門、天慶の藤原純

2、友(すみとも)、康和の源義親( よしちか)、平治の藤原信頼(のぶより)、これらもまもなく亡びてしまった 。 最近では、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公という人の有様を聞くと、 言葉にできないほどだ。 その先祖は桓武天皇の第五の皇子。一品式部卿葛原(かずらはら)親王の九 代の子孫にあたる讃岐守正盛(さぬきのかみまさもり)の子孫であり、刑部卿 忠盛(ただもり)朝臣の嫡男である。かの親王の子、高視王(たかみおう)は 無官無位でした。その子高望王(たかもちおう)のとき初めて平の姓を賜って 上総介になりましたが、すぐ皇族をはなれ

3、て人臣に連なった。その子の鎮守府 将軍良望(よしもち。後に国香(くにか)と名を改めた。)から正盛までの六 代の間は、諸国の受領であったが、宮中に昇殿を許されなかった。殿上闇討(てんじょうのやみうち) 忠盛が、まだ備前守だったとき鳥羽院の御願寺の得長寿院(とくちょうじゅ いん)を造営して差し上げ、三十三間の御堂を建て一千一体の御仏を納めた。 供養は天承元年三月十三日です。褒賞として但馬国の国守が空いていたので、 それをもらった。鳥羽上皇は、なお、ご感心のあまり内裏の清涼殿の昇殿を許 しました。こうして忠盛は三十六歳で初めて

4、昇殿した。 公卿・殿上人たちはこれを妬んで同年十一月二十三日五節豊(ごせつとよ)の 明の節会の夜、忠盛を闇討にしようと計画をたてた。この事を伝え聞いた忠盛 は、「武勇の家に生まれて、不慮の恥にあうことは我が身のため、家のために も残念なことだ。身を全うして君に仕えるという本文もある。」と用意をして いった。 まず大きな鞘巻(さやまき)を用意して抜いてみせたりした。また、左兵衛 尉家貞(いえさだ)という者を護衛につけた。そのためかこの夜の闇討はなか った。 忠盛が御前に召されて舞を舞ったとき、人々は「伊勢平氏はすがめなりけ

5、り 」とはやした。忠盛はどうにもしょうがなくて御遊も終わらぬうちに退出しよ うとした。その時に紫宸殿(ししんでん)の後で側の殿上人が見ているところ で主殿司(とのもづかさ)を呼び、刀をあずけて退出した。 待っていた家貞が「いかがでしたか。」と聞いたが、うっかりしたことを言 うと殿上までも斬り上がろうとする者なので、「特別のことはなかった。」と 答えた。 五節の節会が終わったあと、殿上人たちが口を揃えて「忠盛は武士を殿上の 小庭に召しておき、刀を持って節会の座に列席している。けしからぬことなの で、くびにすべきだ。」と、訴

6、えでたので、鳥羽上皇は驚いて忠盛にたずねた 。忠盛は「家来が殿上の小庭に来ていたのは知らなかった。しかし、人々が何 か計略しているとかいうことなので、それを伝え聞いた家来がこっそり来てい たとしたら、いたしかたのない事だ。刀は主殿司に預けておいたので、それを 調べてほしい。」といった。刀は木刀に銀箔を貼り付けた物であった。 「当座の恥辱をのがれるため刀を帯びているように見せ、後日訴訟がある事 を考えて木刀にしていたという用意の深さは感心だ。家来の件は武士の家来の 常の事である。忠盛の罪ではない。」といって、かえってお褒め

7、にあずかった ので、特に罪科に処するというような事はなかった。鱸(すずき) 忠盛の子は諸衛の佐(しょえのすけ)になった。そして昇殿したが、もう殿 上の人が交際を嫌うことはなかった。羽院の御所に忠盛の最愛の女房がいた。その女房は薩摩守忠度(ただのり) の母である。 忠盛は刑部卿になって、仁平(にんぺい)三年正月十五日に五十八歳で死ん だ。 清盛は嫡男で跡を継いだ。保元元年七月に宇治左大臣頼長(よりなが)が世 を乱したとき安芸守として勲功があったので播磨守に移って太宰大弐(だざい のだいに)になった。 平治元年十二月、藤原

8、信頼(のぶより)卿が謀反をお こしたとき賊を平らげ重く恩賞を与えられて、翌年、正三位、参議、衛府督( えふのかみ)、検非違使別当、中納言、大納言、そして左右の大臣を経ないで 、内大臣から太政大臣、従一位に上がった。 平家がこのように栄えたのも熊野権現のご利益ということであった。 清盛が安芸守だったころ伊勢から熊野へ船

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